「理系人間のたわごと」

髙橋俊樹の頭の中では,こんなことを考えています. やっぱり馬鹿かもしれないね・・・ でも,間違っているかどうかは問題ではない! 書きたいから書かせてもらっているだけのことです.


親バカ考

 「親バカ」という言葉がある.自分の子供が他の子供に比べてものすごくかわいく見えるし,利口に見える.それを,他人に自慢すると,「あなたは親バカね」となる.目に入れても痛くないというのは,自分の子供や孫にしか使わない言い回しである.他人に自慢する行為はどうかと思うが,普通に,自分の子供が他人の子供に比べて違った存在になるのは当然のことだと思う.自分に似てとてもかわいいし,まだしゃべることのできない赤ん坊が「あーうー」とうなっているだけなのに,「あいうえお」としゃべれるぞということになるのである.自分の遺伝子が生き続ける存在が,他といっしょにされたら困るのである.最近,親バカでない親が多いようだ.そういう親こそバカである.自分の子供をどうして虐待できようか? おそらく,忍耐力欠如や超利己主義に由来するのだろうが,虐待して死に至らしめるような事をする親の遺伝子はやはり淘汰されるのである.しかし,淘汰されつづけているのなら,今時そのようなことは起こらない社会になっていてもよさそうなのだが,そうなっていないということは,最近急速に環境が変化していることを物語っているのであろうか?(平成15年4月1日)


杉税をかけたい!

 我輩は花粉症である.大学2年の春に突然なりました.かれこれもう10年くらい付き合っていることになります.特にひどい時は,なんと「咳」という風邪の症状が現れます.2ヶ月間もはきそうになるくらい咳き込む姿を見た人は,「やばい病気なんじゃない?」という目でみてくれるので,だいぶ気まずい思いをしました.3年前の春に,このいやらしい咳があの花粉細菌によってもたらされたことを知り,抗ヒスタミン剤を毎朝毎晩飲むようにしたところ全くなくなりました.この花粉症,一度発症すると一生治らないということもあってか,なかなか人は自分が発症したとは認めたがらないのが面白い.鼻水たらして,目は真っ赤にしているのに,自分だけは花粉症にはならないのである.今まで,人が花粉症になっているのをみて「ああ,かわいそうに」って第三者的態度で見ていた自分が,突然,花粉症になるわけだから精神的なショックは大きいのである.残念ながら,この哀れな人々の数は今後どんどんと増えていくに違いない.「日本人総花粉症」時代もひょっとするとあと100年以内にやってくるかもしれません.しかし,花粉症を嘆いてばかり入られません.本当に何とかしないといけないのです!(これは,花粉症の人にしかわからないのですが,私は,今,花粉症でない人のために訴えているのであります)まずは医療費.私の場合.今の保険制度ではまとめて2週間分の薬しかもらえませんが,(これも何とかしてもらいたいもんです.わざわざ医者へ出かけるのも,毎回処方箋を書いてもらって金を取られるのもあほらしい.しかし今は金の計算をしなくちゃ.)1回に処方箋を書いてもらうのが約400円なり.薬は大体約千円だから,花粉シーズンの2月上旬から5月上旬までの3ヶ月間に13週間で約6回のお薬代が約8400円になります.私は今,花粉症の人の数は,隠れ花粉症患者を含めると1000万人くらいは,いるんじゃないかと思っております.いいかげんですけどね.でも,100万人くらいといっている調査は少なすぎます.隠れ花粉症患者の数はばかにはなりません.でも,おそらくちゃんと治療をしている人がその程度だっていうのならわかります.そうすると,私の場合を単純に100万倍すると84億円になります.これには医療費負担が2割である(今年の4月からは3割)ということを考慮しておりません.また市販の薬は,目薬だけでも1000円弱しますし,マスクなども大量に消費します.既に1000億円規模のビジネスになってしまっております,経済に対する影響はこれだけではありません.花粉症になると春先の仕事量は,若干落ちるはずです.私の場合は,あまり影響はありませんが,睡眠不足によって作業効率が低下しているかもしれません.このような状況が続いているのにもかかわらず,国は一向に対策を打ち出してはくれません.「杉の木を現在の半分に減らすこと」または,「杉の木1本につき月100円の税金を科す.」などといってくれないかなぁ.と常々まじめに思っているのです.杉税については最近思いついたのですが,そうすれば,杉税の負担に耐えられず,杉の木を切るってことになるかもしれないから.人間が植えておいて,勝手なことをよく言うもんですね.(平成15年3月31日)


考えることを放棄した宗教?

 中学生のある日,僕は一生懸命ベッドの上で考えました.この世の存在について.そして,僕はとっても満足の行く結論に到達し,安心して眠ることができました. この世の全ては,どこか遠い星の誰かが見ている夢の中の出来事なのだと.そのことを思い出したつい最近,最初は(何でこんな結論で満足してるんだろ,もしかして俺って馬鹿だったんか?)の感想でした.なぜなら,現在では,「遠い星だって宇宙の一部でこの世の中の法則によって支配されている世界である」って事を知っていますし,「夢と言うのは,経験によって構築された生物の脳活動の一部である」って事もなんとなくわかってるので,この世の存在について,全くと言っていいほど奥深くまで追及した考察ではないのであります.しかし,記憶をたどっていくうちに,(ちょっとは考えてたな,俺.)って少し若かりし自分に自信が取り戻されていくようになりました.といいますのも,遠いっていうのはどのくらい遠いかって言いますと,我々が生活している世の中と全く相関がないほど遠い世界を考えていたようです.近くであると,ある誰かって言う超人的存在が居る場所に我々の環境が影響を多少なりとも及ぼすであろうと考えたらしいのです.結局のところ,ある誰かってのは,宗教で言うところの「神」なんでしょうね.中学生の僕は,考えても考えても良いアイデアが浮かばず,その結果,ある誰か(中学時代の僕は,同年代の人間風の生物を頭の中では想像していました)に登場してもらうことで,それ以上考える必要がなくなったのです.「神様」の存在と言うのは,考えることを放棄した結果出てきたものなのかなぁ.(平成14年5月11日)


研究基盤の教育

今回は私の教育に関する持論を述べさせてください.「学力とは何ぞや」ってところで一部書きましたが,これから研究・開発にたずさわろうとする者にとって重要な力は,「何かをやり遂げようとする意欲」であると思います.最近の大学生(私もそのうちに属していたと信じたい・・・.でも,「最近の若いもんは」なんていうのはたいてい,かなりきてるね.)は,講義を受け,それに従った試験問題に対する解答についてはきちんとお勉強するが,それ以外に対しては全く興味を示そうとしない傾向にあると感じます.でも,本当の研究や開発で答えがわかっているものっていうのは稀で,実際にはいろんなことを試行錯誤しながら暗中模索を繰り返すのが普通です.こういうことって,現在の大学教育を受けてきた人たちができるんでしょうかね.私は,できんと思っとるんです.確かに,基礎となる学問を習得することは必要ですから,講義は重要だと主張したくなるのはわかります.でも習得できれば話は別なのですが,講義を受けて試験を受けた結果,残されたのはノートに写されたことの記憶,情報を集めたコピーの記憶だけだとしたら,それは記憶の減衰曲線に従って速やかに脳みそから失われてしまいます.実は,その記憶された事実の奥底に潜む自然の真理ってものを理解しなくちゃならんはずなんですが,そのためにはやはり「自然の真理」ってものに好奇心を持つことが一番重要なのではないんでしょうかね.回り道をしてしまいましたが,そういうわけで,私が提唱するのは「研究基盤の教育」です.学部学生をもっと早い段階で,研究室に配属するべきなのではないかと思うのです.2年生くらいでね.そうすると次のような効果が望めるんじゃないかな. ①講義を受ける姿勢・意欲を高める(その講義の必要性が分かるから). ②柔軟な発想を取り入れられる. ③学生に適した研究室選びの機会を増やす. ④教官と学生の交流が深まり,進路相談が充実できる. ⑤ほとんど,遊び半分に使われている無駄な2年間を研究に注ぎこめるようにできる. ---皆さんはどう思いますか?(平成14年5月11日)


ひっつきむし

 私は,ひっつきむしと呼んでいる植物がある.詳しい名前は知らないのだが,何種類かの-数百とあるに違いないが-植物で種(たね)を人間の衣服にくっつけるなんともうっとうしいやつのことである.引っ付くというのは鹿児島弁だろうか?そうじゃないよね.何はともあれ,彼らの種は人間の洋服を狙ってくっついてくるのである.子供のころ,よく野球をやっていて,ボールを藪に打ち込んでしまうと,そのボールで野球を再開するために必死こいて探し回る.2・30分探し回るのは平気だった.ようやく見つかって野球を始めようとすると,足だの手だのに,いわゆるひっつきむし野郎がいっぱいくっついているのである.  最近,自分がなんとなく信じていたことが実は間違っているのではないかと,ふと考えたことがある.つまり,このひっつきむし野郎は人間の洋服を主なターゲットとして進化してきたのだと子供のころから信じて疑わなかったのだが,ようやく最近になって,人間って言うのは生物の歴史からするとつい今しがた生まれてきた部類であるので,ひっつきむし野郎たちは,実はわれわれが洋服を使うずっと前から存在していた大先輩なのだ,ってことに気がついたのであります.しかし気が付いたときは驚きましたね.ってことは,彼らは,もともと人間なんかまったく意識しないで進化してきたのですね.野ねずみや,熊や狸の体毛のほうがずっと魅力的なのですね.いや,僕にはどうしても信じられないのであります.どう考えても,彼らは人間を狙って進化してきたとしか信じられないほど,効果的に洋服にくっつくのです.皆さんは,小指の先くらいのラグビーボールの形をしてとげとげがついた緑色のひっつきむしをご存知ですか?あれは野ねずみにくっつくにしては大きすぎます.熊の毛にくっつくのでしょうか?どう考えても,人間の子供たちが相手の洋服にたくさんくっつける一種の戦争ごっこによって,彼らひっつきむしの活動範囲が飛躍的に拡大したとしか思えないのであります.あれは洋服が最もよくくっつくのです.やっぱり私は昔からの信念を貫こう.人間の登場によって,急速に進化を遂げた生物,それがひっつきむしである.(平成13年12月15日)


努力無しでは・・・

 どの世界でも…,と思うことがある.努力無しでは一流にはなれない.そして,心も体も健康でなければ同じく,一線で活躍することはないのだろう.海外で活躍している大リーガーは皆努力家で,クレバーで,野球に対してはストイックだ.常に向上しようとしている.昨日,高校野球を見ていたが,154キロの豪腕寺原投手は,今後努力しなければプロでは活躍できないだろう.彼の行動は,テレビによく映し出されるが,ベンチでは髪を整えることに一生懸命で,相手を真剣に観察していない.向上の意思がないと見る.サッカーの前園も天狗になって,今は,全く代表にもなれない.その反面,中田英寿は自分に対してまじめである.一時期マスコミ嫌いだったが,それは,サッカーに対して不真面目な質問しかしてこない記者にうんざりしたからだと思う.スポーツで活躍する選手は,皆,体力があるだけでなく,精神的にもよく修養され,いかに自分を向上させるかをよく知っている人たちだと思う.我々,研究者も同じく,精神力を鍛えなければならないだろう.(平成13年8月20日)


学力とは何ぞや

 最近,大学に入学してくる学生の,学力が低下しているといわれる.ゆとり教育の普及により,学習指導要領に含まれる内容が少なくなってきているからだという.旧文部省のねらいは,より狭くより深くだと思われる.また,詰め込み型の学習はやめようと言うことだろう.しかし,結果的にはそれが「学力」低下を導いたのだそうだ.じゃあ,学力って何なんだ.学力の高い学生というのはいったいどういう学生を言うのだろうか?おそらく,日本の教育者の中で,学力というものをわかっている人はいないのではないだろうか?だって,もしわかっていれば,学力がつくようにトレーニングすれば良いだけの事だ.それがわかっていないから,こういう事態を引き起こしているに決まっている.僕は,今,日本の学力は最低レベルだと考える.つい先日聞いた話なのだが,日本は,数学,理科などの,基礎教科のテストは世界的にみても上位だったのだが,その必要性を実感したり好きだと答えた人の割合は最低レベルだったらしい.僕は,学力というのは,後者を言い,前者はその学力を実践するための道具だとしかとらえていない.つまり,今の日本の状態は,道具を使いこなすマニュアルとその指導は充実しているかもしれないが,若者はその道具を使って何かしようという気はさらさらない,といっても良いのではないだろうか?  学力とは,学ぶ力のことである.学ぶは真似ぶことであり,師を真似て自分のものにすることだと聞いている.如何に真似して,如何に自分のものにするかに熟達しているものが,学力の高い人間なのではないだろうか?それは,写し取ろうとする意気込みがなければ出来ないことである.モティベーションが高くなければ,つまり好きでなければならないのである.  学力の高い学生を,どうやったら作り出せるのであろうか?やはり,自分がいったい何になるのか,夢を若いうちに持たせることだと思う.そして,何度となく進路の決断を迫る時を作るべきだと考える.そして,間違った進路へ進んでも,何度もやり直せるシステムを作り上げることだと思う.それが,モティベーションを高め,好きなものを探す力を養う方法の一つなのではないだろうか?(平成13年1月27日)


人間の右利きが多いわけ

 うちの学生によると,人間は後天的に右利きになるという.僕自身は,この意見に反対である.人間は,左右対称には出来ていないことを考えると,なんとなく,生まれつき右利きが多くなるように出来ているのではないかと思ってしまう.でも,全然科学的根拠はないから,みんなにこの説を自慢できないのが悲しい.しかしながら,学生の説に反論は出来るのである.「習慣や環境が右利きになるようにしむけているんですよ.」とあるものが言った.では,その習慣や環境はどうして出来たのか説明してみろというと,なかなか出来るものはいない.しかし,学生の説にふと賛成したくなることもある.それは,親が右利きであるという環境で育つとどうしても,幼い段階で右利きになりやすい.抱っこする時に,右利きの人は,右手で頭を支えたほうが,抱っこしやすい.すると,赤ちゃんは右手が自由に動き,左手は親の体に邪魔されて,自由を失ってしまうのである.でも僕は,そういうことを言っているのではない.何で,親は右利きなんだ.そしてまたその親は? どこかで,読んだことがあるような気がする.人間は,昔,楯と槍をもって戦った.戦うといっても相手は,必ずしも人間だけではない.動物を狩りすることだってあるだろう.心臓は左についているので,楯を左の方に持ち,それを守る.右手に槍を持って,相手を突く.勢い,右手の方が複雑な運動をするようになる.それで,人間は右利きになったのだと.従って,この説によると,人間の右利きは,心臓の位置が左についていたことに起因することになる.しかし,問題はここで解決するわけではない.じゃぁ,何で心臓は左についているんだ?人間の,左右対称性の破れもなかなか面白い研究テーマだと思っている.(平成13年1月26日)